そいとごえすの退避ブログ

2019-02-21 はてダから移転。

「たった二度の過ち」草稿

あまりに退屈なので俺は席を立ち、数学教師A(生活指導部)の視線を無視して講堂を抜け出した。足早に物理準備室に向かう。わが写真部は旧校舎のクラブ雑居エリアとは別に新校舎四階の物理準備室の一隅を「暗室」として貸与されている。渡り廊下にも新校舎にも人影はない。今この時間、全生徒は講堂で窮乏生活評論家Y氏のあの退屈な雑談を拝聴しているはずだ。俺のような不良を除いて。
四階に駆け上がり「暗室」に入ると、薄い壁を隔てた隣りの物理教室から女たちの話し声が聞こえてきた。物理教師M(兼写真部顧問)と、……あの甲高い笑い声は203のTか。Mは一部女子生徒に人気があり休み時間の物理教室はしばしば彼女らの溜まり場になっている。しかし今は休み時間ではない。俺のようなダメ生徒でもとりあえず講堂には顔を出したのに、Tはハナからここにしけこんでやがったのか。うまく立ち回りやがる。いらいらしながら赤色灯をつけ(暗室には赤色灯しかないのだ)備品を弄っていると物音に気づいてMが壁越しに声をかけてきた。
「だれ? 講演は終わったの?」
無視しているとMは声に威嚇の色を含ませてさらに問いかけてくる。
「サボって来てるの? ちょっと返事しなさいよ! ……N君でしょ!」
写真部は不良の集まりなのに、なんで一発で俺とわかるんだ。勘弁してくれ。
物理教室の引き戸が開く音がし、廊下をカカカッと小刻みな上履きの音が近づいてきて準備室の前で止まった。物理教室の奥には準備室へのドアがあるが、「暗室」はロッカーを並べて作られた閉鎖空間のため廊下側の準備室のドアからしか入れないのだ。
「開けるわよ?」
怒ってはいるが許可を求める。準備室のドアには常に「現像中!開けるな!」カードがぶら下がっている。
「う〜〜い」
「ふざけないでよ。なによ教師に向かってその返事は!」
Mがドアを開け俺を睨む。Mは背が低く椅子に座っている俺と目の高さがほとんど同じだ。Mの顔も白衣も赤色灯を正面から受けてくすんだピンク色になっている。物理や化学の教師はなんでいつも白衣を着ているんだろう、実験なんて滅多にしないのに。小柄なMに丈の高い白衣は似合わない。上着が全部隠れてしまって白衣の下に何も着けていないように見える。ああそれにしてもどう返事すれば気に入るんだMは。うざったい。言葉が出てこない。背を向けて作業を続ける。
「N君、キミね……。もう私、庇い切れないから!」
庇うってなんだよ。旧校舎の部室でタバコ吸ってボヤ騒ぎ起こした犯人は俺じゃないって、何度も説明したのに。教師は不良の言うことなど信じない。ばからしくてやってらんねえ。
「……あの写真、好きにしていいから。もう私、キミとは」
目の前が赤黒くなって、気づくと俺はMを「暗室」の中に引きずり込んでいた。目の下でMの胸が大きく波打っている。
「Tさんがいるのに……教室にTさんがいるのに」
「3Pしたいのか? エロ教師だな」
Mが弾けたように大声で泣き始めた。それがなんだ。ここで止められるか。だけどうまくできない。体は勝手に動く。Mの体も動いている。だけど暗くて何がどうなっているのかわからない。酸っぱい匂いが充満している。氷酢酸をこぼしてしまったらしい。
終業のチャイムで我に返った。Mを抱えて物理教室に行くとTはいなくなっていた。西日の差す教室で写真を撮った。Mの写真を撮るのはこれが二度目だ。
そのたった二度の過ちのために、俺は高校生活最後の一年間を写真部部長、即ちM専属の雑用係としてこき使われて過ごすことになった。