そいとごえすの退避ブログ

2019-02-21 はてダから移転。

廣松渉の文体

ESPIOを読んでいたら

「「叙示される意味」の伝達は、結局のところ、指示対象(超文法的主語)を「述定的意味」(超文法的述語)としてals etwas Anderes haltenするところの“意識作用”が、表現者と理解者のあいだで共同主観化することにほかならず、」云々

という妙に懐かしい文言が出てきて、あれあれ?と思いつつ読み進むと、やはり廣松渉であった。

廣松渉の文体は、漢文脈を基本に、ドイツ語その他の欧文を交えた独特の文体である。
 その著作が中国語に翻訳され、受容される理由の一端は、その漢文脈にあるのではないかと従前思い付きで捉えていたが、実際には翻訳者は「ドイツ語原文の傍注」を頼りに、「根本的に訳することが不能だと思われたあの日本の漢字は大多数、ある程度元来の語意を保つことができた」ということらしい。
http://www.nju.edu.cn/njuc/chi-jp/zryj/3.htm

出典の廣松渉:関係主義的存在論と事的世界観を読んでみた。
副題は「訳者序文に代えて」。廣松の著作を中国語に訳出した南京大学中日文化研究中心・張一兵氏による廣松哲学の概要紹介と翻訳事情の解説。
大変な労力をかけて翻訳作業をするぐらいだから、当然、訳者たちは廣松哲学を高く評価しているのだが、マルクス主義哲学としては相当に先駆的なそれを丸呑みできるはずもなく、要所で「ここだけは譲れない!」という気迫を込めて(笑)廣松の解釈を批判していたりして、長文だが面白く読めた。ESPIOが引用しているのは翻訳作業の苦労を吐露した最後の箇所。
(このサイトは簡体字中国語(GB1312)で、うちの環境だと日本語フォントが読みにくい。いったん日本語エンコードでファイル保存してから読んだ。)

廣松渉の文体についてESPIO野田氏は「漢文脈を基本に、ドイツ語その他の欧文を交えた独特の文体」と書いているが、Wikipediaの「廣松渉」「特異な擬古文調・擬漢文調の文体」と表現している。廣松の論稿の読みにくさは、難読漢字・難解漢語の濫用にあるんだよなあ(欧文混じりなのは読解する上で障害にはならない)。もう少し平易な文体で書いてほしかった。


まったくの余談だが。Wikipediaの「廣松渉」はリード文に「筆名は門松暁鐘など」とある。「日本の哲学者」と紹介するリード文の中にこんなトリビア的知識(学生運動活動家時代の筆名)を入れる必要があるのかねえ? リードに書いたきりで、本文ではこの筆名は出てこない。

(このエントリーは25日にアップロード)